日本を代表するアニメ映画の監督、宮崎駿。
数ある作品の中で、アカデミー長編アニメ映画賞を受賞した「千と千尋の神隠し」。
名作です。
しかし、何かよくわからないシーンやキャラクターが幾つかあります。
いろいろ考えると、裏のストーリーがありそうです。
実際、ネットで調べると、多くの人が色々と考察されている記事を見ることができます。
しかし、しっくりくるのが無かったので、自分で改めて考察してみました。
ご覧ください。
(ネタバレがあります。ご了承下さい。)
意味あり気に登場し、物語の中心にいるカオナシ。
神様だけが来れる油屋にきて、ひと騒動起こします。
その後、千尋と一緒に銭婆のところに行きました。
その象徴的な顔と行動は、何かを暗喩してそうですよね。
まず、カオナシの特徴をまとめてみます。
・馬鹿みたいに食べ(資源を消費し)、欲望が尽きない。
・何でも金で解決しようとする。
・自分の声では話せず、他人の言葉でしか話せない。
何となくですが、これって現代人に似てます。
では、この映画で現代人はどう定義されているのか、見てみます。
この映画で出てくる現代人は千尋と両親しかいません。
改めて見直すと千尋の両親とカオナシには共通点があるのが分かります。
まず、双方とも馬鹿みたいに食べ、欲望が尽きません。
千尋の両親はお店の料理を大量に食べ、豚になってまで食べていました。
次に何でもお金で解決できると思っています。
大量に食べる両親を見た千尋が「お店の人が来たらどうするのか」と心配すると、母親は答えます。
「そのうちくれば、お金を払えばいいだけだから」
父親も続けます。
「カードも現金も持ってるから」
現代人である両親はお金さえ払えば、解決できると思っているのです。
この通り、カオナシと映画の中の現代人(千尋の両親)には共通点がありました。
これらのことか、カオナシは現代人を象徴しているとみて問題なさそうです。
現代人の象徴であるカオナシを油屋に入るのは、現代人は神様なのかという問いではないでしょうか。
日本には八百万の神がいます。
何にでも神となるのであれば、現代人も神の一員となりえるのる可能性もあります。
話は変わりますが、宮崎駿監督は前作で「もののけ姫」を作りました。
その「もののけ姫」では、日本人による神殺しを描きました。
そして、本作では、現代人は神になりえるのか問いかけているのです。
つまり、「千と千尋と神隠し」は「もののけ姫」のテーマの続編とも言えるのです。
「現代人が神となりうるのか」という問いは、すでに答えが用意されています。
それは、銭婆に会いに行く部分を見れば分かるようになっています。
ひたすら海の上を走る電車。
しかも、電車には行きしかなく、帰りの電車がないということ。
なんか意味あり気です。
自分は、この電車の部分に、先ほどの「現代人は神なのか」という問いの答えがあると思っています。
それでは詳細に触れたいと思います。
まず、着目してほいのが列車の行き先。「中道」と書かれています。
馴染みのない言葉ですが、「中道」は仏教用語です。
むかし、釈迦が悟りを求めて修行した時、あらえる苦行を伴った修行をしました。
しかし、その修行を終えたとき、苦しいだけで意味が無かったと気づくのです。
そして、本当に仏になりたい(悟りを開きたい)ならば、楽な道もダメだが、苦しい修行も意味がない。
そのどちらでもない、真ん中の道が正しい仏への道だと教えたのです。
これが「中道」です。
「中道」とは仏への道のことを言っていたのです。
つまり千尋が乗った列車は仏行きを意味しているのです。
次に着目したいのが、降りる駅が6番目の駅ということです。
この駅について、釜爺は「とにかく6つ目だと」と何度も言い、6番目という数字にこだわっていることが見てとれます。
6番目という意味ですが、列車の行き先「中道」から察するに、6というのは「六道」を象徴していると思われます。
この「六道」という言葉も仏教用語で、全ての生き物が住む地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上と言われる迷いのある6つの世界を表しています。また、生き物は死ぬと6つの世界のどこかに再度生まれ変わると言われています。
そして、そのどの世界も大なり小なり、苦しみや迷いがあり、寿命もあるという考え方です。
どの世界に生まれても、ツライことには変わりありません。そこで、仏になり、六道から解脱すること。これが仏教の目的の一つです。(宗派に応じて考え方が異なります)
この列車の駅が六道だとすると、駅で乗り降りしていたひとはそれぞれの世界に生まれ変わる(輪廻すふ)人だったと思われます。
そのため、乗っている人は死人であり、覇気がなかったのですね。
また、ずっと列車が水の上を走っていたのは、岸辺(浄土)につかない三途の河を象徴していたのかもしれません。
ちなみに、7は仏教において、仏を表す数です。
釈迦が生まれたときに、7歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言ったのは有名な話。
また、人が亡くなった後、初七日、四十九日(7かける7日)を節目とするのも、7が仏を表す数字だからです。
千尋たちが、7駅目の駅で降りていたら、また解釈は変わったでしょう。
これらのことを踏まえて、カオナシを6番目の駅に下ろすということは、現代人(カオナシ)は神仏の世界ではなくて、迷いのある現実の世界にいるべきという主張を表していると思われます。
その後、カオナシは銭婆の家にとどまります。
そこでは、あの暴れていたカオナシは大人しくなります。
編み物の手伝いをしたりと、コツコツ働いていました。
カオナシの一連の行動が表す行動をまとめてみます。
「現代人は神となることはできない。
現世で、世俗にまみれて、労働しておけ」
カオナシには、こういうメッセージが込められているのではないでしょうか。
考察は以上です。
仏教の話とか出てきて、少し怪しい人っぽくなってしまいました。
申し訳ありません。
それにしても、深い映画でした。
実は些細な暗喩があるシーンは他にもあるのですが、書ききれませんでした。
これは何度も映画館に足を運びたくなります。
見れば見るほど気づきがありそうです。
宮崎駿監督が世界で評価されているのも頷けます。
長い文書でしたが、最後まで見て頂いてありがとうございました。
次あたりは「となりのトトロ」を考察してみたいです。
終わり。
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数ある作品の中で、アカデミー長編アニメ映画賞を受賞した「千と千尋の神隠し」。
名作です。
しかし、何かよくわからないシーンやキャラクターが幾つかあります。
いろいろ考えると、裏のストーリーがありそうです。
実際、ネットで調べると、多くの人が色々と考察されている記事を見ることができます。
しかし、しっくりくるのが無かったので、自分で改めて考察してみました。
ご覧ください。
(ネタバレがあります。ご了承下さい。)
カオナシは現代人の象徴
意味あり気に登場し、物語の中心にいるカオナシ。
神様だけが来れる油屋にきて、ひと騒動起こします。
その後、千尋と一緒に銭婆のところに行きました。
その象徴的な顔と行動は、何かを暗喩してそうですよね。
まず、カオナシの特徴をまとめてみます。
・馬鹿みたいに食べ(資源を消費し)、欲望が尽きない。
・何でも金で解決しようとする。
・自分の声では話せず、他人の言葉でしか話せない。
何となくですが、これって現代人に似てます。
では、この映画で現代人はどう定義されているのか、見てみます。
この映画で出てくる現代人は千尋と両親しかいません。
改めて見直すと千尋の両親とカオナシには共通点があるのが分かります。
まず、双方とも馬鹿みたいに食べ、欲望が尽きません。
千尋の両親はお店の料理を大量に食べ、豚になってまで食べていました。
次に何でもお金で解決できると思っています。
大量に食べる両親を見た千尋が「お店の人が来たらどうするのか」と心配すると、母親は答えます。
「そのうちくれば、お金を払えばいいだけだから」
父親も続けます。
「カードも現金も持ってるから」
現代人である両親はお金さえ払えば、解決できると思っているのです。
この通り、カオナシと映画の中の現代人(千尋の両親)には共通点がありました。
これらのことか、カオナシは現代人を象徴しているとみて問題なさそうです。
現代人は神となりえるのかという問い
現代人の象徴であるカオナシを油屋に入るのは、現代人は神様なのかという問いではないでしょうか。
日本には八百万の神がいます。
何にでも神となるのであれば、現代人も神の一員となりえるのる可能性もあります。
話は変わりますが、宮崎駿監督は前作で「もののけ姫」を作りました。
その「もののけ姫」では、日本人による神殺しを描きました。
そして、本作では、現代人は神になりえるのか問いかけているのです。
つまり、「千と千尋と神隠し」は「もののけ姫」のテーマの続編とも言えるのです。
「現代人が神となりうるのか」という問いは、すでに答えが用意されています。
それは、銭婆に会いに行く部分を見れば分かるようになっています。
電車は輪廻を象徴
ひたすら海の上を走る電車。
しかも、電車には行きしかなく、帰りの電車がないということ。
なんか意味あり気です。
自分は、この電車の部分に、先ほどの「現代人は神なのか」という問いの答えがあると思っています。
それでは詳細に触れたいと思います。
まず、着目してほいのが列車の行き先。「中道」と書かれています。
馴染みのない言葉ですが、「中道」は仏教用語です。
むかし、釈迦が悟りを求めて修行した時、あらえる苦行を伴った修行をしました。
しかし、その修行を終えたとき、苦しいだけで意味が無かったと気づくのです。
そして、本当に仏になりたい(悟りを開きたい)ならば、楽な道もダメだが、苦しい修行も意味がない。
そのどちらでもない、真ん中の道が正しい仏への道だと教えたのです。
これが「中道」です。
「中道」とは仏への道のことを言っていたのです。
つまり千尋が乗った列車は仏行きを意味しているのです。
次に着目したいのが、降りる駅が6番目の駅ということです。
この駅について、釜爺は「とにかく6つ目だと」と何度も言い、6番目という数字にこだわっていることが見てとれます。
6番目という意味ですが、列車の行き先「中道」から察するに、6というのは「六道」を象徴していると思われます。
この「六道」という言葉も仏教用語で、全ての生き物が住む地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上と言われる迷いのある6つの世界を表しています。また、生き物は死ぬと6つの世界のどこかに再度生まれ変わると言われています。
そして、そのどの世界も大なり小なり、苦しみや迷いがあり、寿命もあるという考え方です。
どの世界に生まれても、ツライことには変わりありません。そこで、仏になり、六道から解脱すること。これが仏教の目的の一つです。(宗派に応じて考え方が異なります)
この列車の駅が六道だとすると、駅で乗り降りしていたひとはそれぞれの世界に生まれ変わる(輪廻すふ)人だったと思われます。
そのため、乗っている人は死人であり、覇気がなかったのですね。
また、ずっと列車が水の上を走っていたのは、岸辺(浄土)につかない三途の河を象徴していたのかもしれません。
ちなみに、7は仏教において、仏を表す数です。
釈迦が生まれたときに、7歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言ったのは有名な話。
また、人が亡くなった後、初七日、四十九日(7かける7日)を節目とするのも、7が仏を表す数字だからです。
千尋たちが、7駅目の駅で降りていたら、また解釈は変わったでしょう。
これらのことを踏まえて、カオナシを6番目の駅に下ろすということは、現代人(カオナシ)は神仏の世界ではなくて、迷いのある現実の世界にいるべきという主張を表していると思われます。
その後、カオナシは銭婆の家にとどまります。
そこでは、あの暴れていたカオナシは大人しくなります。
編み物の手伝いをしたりと、コツコツ働いていました。
カオナシの一連の行動が表す行動をまとめてみます。
「現代人は神となることはできない。
現世で、世俗にまみれて、労働しておけ」
カオナシには、こういうメッセージが込められているのではないでしょうか。
考察は以上です。
仏教の話とか出てきて、少し怪しい人っぽくなってしまいました。
申し訳ありません。
それにしても、深い映画でした。
実は些細な暗喩があるシーンは他にもあるのですが、書ききれませんでした。
これは何度も映画館に足を運びたくなります。
見れば見るほど気づきがありそうです。
宮崎駿監督が世界で評価されているのも頷けます。
長い文書でしたが、最後まで見て頂いてありがとうございました。
次あたりは「となりのトトロ」を考察してみたいです。
終わり。
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