美術や現代アートに興味がなかった私が、美術を好きになった経緯と、美術をいかに考察するか、鑑賞についての考え方について書きます。
芸術は意味不明?
美術は意味不明なもの、関係ないものと思っていました。
現代アートとか、全く持って意味不明ですよね。
芸術は大学などで専門の勉強した人が嗜むものだと思ってました。
有識者が自分達だけ価値を理解して、一般市民を見下している、そういうイメージです。
あんまいいイメージありませんでした。
現代アートに至っては、雰囲気で評価せれていると思っていました。
ピカソのキュビズムの絵なんかは、デザイン的にオシャレだから評価されている、そう思っていたのです。
こうやって、絵画や現代アートに対して距離を置いていました。
しかし、小説は好きで色々本を読んでいました。
ただ、表面のストーリーのみを見るだけ。
文学的に価値があると言われる小説を読んでみても、何故これが評価されているのか一切分からないままでした。
大学での出会い
大学の時に、ふと、美術を鑑賞する講義を受講しました。
その授業の内容が、あまりに衝撃的で、芸術の見方が180度変わりました。
その授業というのは、絵画や映画などを見て、個人が考察を発表するというもの。
授業は、ブレーンストーミングのようなスタイル。
先生は出された意見を絶対否定しません。
また、他の人の発言に便乗した意見も大歓迎。
この授業で、「こうやって芸術は鑑賞すればいいんだ!」と、新しい美術との接し方に感動しました。
今まで遠い存在だった美術が身近なものになったのです。
芸術への価値観が180度変わり、美術が面白くて仕方がなくなりました。
すぐれた芸術作品には裏のストーリーがある
その授業で印象的だった教授の発言。
「優れた美術作品には裏のストーリーがある」
その言葉をきいて「そうだったのか!」と衝撃を受けました。
現代アートは表面しか見ていなかったのです。だから、意味がよくわからないものだったというわけ。
面白くない小説も、表面のストーリーしか見てなかった、評価されている意味が分からなかったのです。
芸術的に評価されている作品は裏のストーリーで評価されていたんです。
ひと昔前、「ダ・ヴィンチ・コード」という書籍や映画が流行りました。
そこでは、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた「最後の晩餐」には謎が隠されている、という話がありました。
当時は「ダヴィンチはすごいなー。絵に秘密を隠しているなんて」と感じました。
しかし、そんのことは他の絵画でも当たり前。
評価されている絵画には謎を含んでいるものばかりだったのです。
学校では教えてくれない美術の鑑賞
中学生から高校生まで美術の時間はありました。
そこでやったのは、絵を描いたり、色を塗ったり、粘土で何かを作ったり…と何かをつくること中心の教育でした。
それが悪いとは思いません。
創造性が磨かれますよね。
しかし、大人になってからの美術への接し方は学生の頃とは大きく異なります。
自分で何かをつくることより、他人が作ったものを見ることが圧倒的に多いからです。
しかし、美術館へ行っても、それまで絵の見方なんて習ってないので、よくわかりません。
何が面白いのか、どうやって鑑賞したらいいのか、分からないのです。
考察の正解はひとつではない
様々な解釈を生んでいる作品も数多くあります。
「作者はこういう意図で作ったんだ!」
「いや、そうではない!こういう意図だ!」
こういった論争が今も続く作品もあります。
実は、こういう議論が作品の価値を高めるんです。
作成から数百年経っても未だに謎があるって興味を抱きますよね。
つまり、多様な解釈を生む作品ほど、作品の価値も高いということです。
裏のストーリーを否定する人も
作品を考察していると、考察をすること自体を否定する人がいます。
映画や小説に多いです。
「自分の好きな作品をそんなふうに見ないで欲しい」
「作者はそんなこと言ってない」
そう言うのです。
その人たちは作品の表面しか見ません。
その人たちにとっては、ゲルニカはただの大きい牛の絵であって、村上春樹の小説はエロい小説、となりのトトロは少女が迷子になるアニメでしかないのです。
私は他人の考察には否定しません。
多様な考察を生む作品ほど素晴らしいと思うからです。
なので、「考察をしない、表面しか見ない」というのも、その人の自由だと思います。
しかし、勿体無いなとは思います。
作者が考察する余地を残しているかもしれないのに、その部分を楽しまないのは損していると思うからです。
表のストーリーしか見ていないと、作品の魅力を充分に堪能しきれません。
作品の魅力も半減以下です。
作品は作者のものではない
他人の考察を否定すべきでないという根拠に、「作品は作者のものではない」という考えがあります。
作者の考えすらも、考察の正解ではないということです。
私の好きな芸術家の1人、マルセル・デュシャン。
彼の「秘められたる音に」にという作品があります。
紐の玉の中に、デュシャンも知らないオブジェを入れて、ボルトで固定しています(1)(2)。
中に何が入っているんだろう?気になりますよね。
この作品は中に何が入っているかがポイントと思いがち。
しかし、違います。
中に入っているのはサイコロでもお金でも何でもいいんです。
作品に作者の知らない要素が入っているということが重要なんです。
作品は作者のものであるという考え方を否定しているのです。
作品というのは、作者のものではありません。
世の中に公開した時点で作者の元を離れて、独立するのです。
そして、様々な解釈を生む。
その解釈は作者のものでなくてもいいんです。
まとめ
複数の考察が出来て、自分なりの解釈ができる作品ほど素晴らしいと思うのです。
鑑賞するときは、他人の意見に便乗して自分なりの解釈を作ればいいんです。
自分なりの解釈を含んだ作品は、自分の特別なものになります。
参考文献
(1)熊谷薫 「デュシャンにおけるコピーの問題――レディ・メイドを中心に」真贋のはざま http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2001Hazama/03/3200.html
(2)friday 2009「泉(Fontaine:Marcel Duchamp 1917/1964)
」パンとワインと... http://breadandwineand.blog88.fc2.com/blog-entry-23.html
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芸術は意味不明?
美術は意味不明なもの、関係ないものと思っていました。
現代アートとか、全く持って意味不明ですよね。
芸術は大学などで専門の勉強した人が嗜むものだと思ってました。
有識者が自分達だけ価値を理解して、一般市民を見下している、そういうイメージです。
あんまいいイメージありませんでした。
現代アートに至っては、雰囲気で評価せれていると思っていました。
ピカソのキュビズムの絵なんかは、デザイン的にオシャレだから評価されている、そう思っていたのです。
こうやって、絵画や現代アートに対して距離を置いていました。
しかし、小説は好きで色々本を読んでいました。
ただ、表面のストーリーのみを見るだけ。
文学的に価値があると言われる小説を読んでみても、何故これが評価されているのか一切分からないままでした。
大学での出会い
大学の時に、ふと、美術を鑑賞する講義を受講しました。
その授業の内容が、あまりに衝撃的で、芸術の見方が180度変わりました。
その授業というのは、絵画や映画などを見て、個人が考察を発表するというもの。
授業は、ブレーンストーミングのようなスタイル。
先生は出された意見を絶対否定しません。
また、他の人の発言に便乗した意見も大歓迎。
この授業で、「こうやって芸術は鑑賞すればいいんだ!」と、新しい美術との接し方に感動しました。
今まで遠い存在だった美術が身近なものになったのです。
芸術への価値観が180度変わり、美術が面白くて仕方がなくなりました。
すぐれた芸術作品には裏のストーリーがある
その授業で印象的だった教授の発言。
「優れた美術作品には裏のストーリーがある」
その言葉をきいて「そうだったのか!」と衝撃を受けました。
現代アートは表面しか見ていなかったのです。だから、意味がよくわからないものだったというわけ。
面白くない小説も、表面のストーリーしか見てなかった、評価されている意味が分からなかったのです。
芸術的に評価されている作品は裏のストーリーで評価されていたんです。
ひと昔前、「ダ・ヴィンチ・コード」という書籍や映画が流行りました。
そこでは、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた「最後の晩餐」には謎が隠されている、という話がありました。
当時は「ダヴィンチはすごいなー。絵に秘密を隠しているなんて」と感じました。
しかし、そんのことは他の絵画でも当たり前。
評価されている絵画には謎を含んでいるものばかりだったのです。
学校では教えてくれない美術の鑑賞
中学生から高校生まで美術の時間はありました。
そこでやったのは、絵を描いたり、色を塗ったり、粘土で何かを作ったり…と何かをつくること中心の教育でした。
それが悪いとは思いません。
創造性が磨かれますよね。
しかし、大人になってからの美術への接し方は学生の頃とは大きく異なります。
自分で何かをつくることより、他人が作ったものを見ることが圧倒的に多いからです。
しかし、美術館へ行っても、それまで絵の見方なんて習ってないので、よくわかりません。
何が面白いのか、どうやって鑑賞したらいいのか、分からないのです。
考察の正解はひとつではない
様々な解釈を生んでいる作品も数多くあります。
「作者はこういう意図で作ったんだ!」
「いや、そうではない!こういう意図だ!」
こういった論争が今も続く作品もあります。
実は、こういう議論が作品の価値を高めるんです。
作成から数百年経っても未だに謎があるって興味を抱きますよね。
つまり、多様な解釈を生む作品ほど、作品の価値も高いということです。
裏のストーリーを否定する人も
作品を考察していると、考察をすること自体を否定する人がいます。
映画や小説に多いです。
「自分の好きな作品をそんなふうに見ないで欲しい」
「作者はそんなこと言ってない」
そう言うのです。
その人たちは作品の表面しか見ません。
その人たちにとっては、ゲルニカはただの大きい牛の絵であって、村上春樹の小説はエロい小説、となりのトトロは少女が迷子になるアニメでしかないのです。
私は他人の考察には否定しません。
多様な考察を生む作品ほど素晴らしいと思うからです。
なので、「考察をしない、表面しか見ない」というのも、その人の自由だと思います。
しかし、勿体無いなとは思います。
作者が考察する余地を残しているかもしれないのに、その部分を楽しまないのは損していると思うからです。
表のストーリーしか見ていないと、作品の魅力を充分に堪能しきれません。
作品の魅力も半減以下です。
作品は作者のものではない
他人の考察を否定すべきでないという根拠に、「作品は作者のものではない」という考えがあります。
作者の考えすらも、考察の正解ではないということです。
私の好きな芸術家の1人、マルセル・デュシャン。
彼の「秘められたる音に」にという作品があります。
紐の玉の中に、デュシャンも知らないオブジェを入れて、ボルトで固定しています(1)(2)。
中に何が入っているんだろう?気になりますよね。
この作品は中に何が入っているかがポイントと思いがち。
しかし、違います。
中に入っているのはサイコロでもお金でも何でもいいんです。
作品に作者の知らない要素が入っているということが重要なんです。
作品は作者のものであるという考え方を否定しているのです。
作品というのは、作者のものではありません。
世の中に公開した時点で作者の元を離れて、独立するのです。
そして、様々な解釈を生む。
その解釈は作者のものでなくてもいいんです。
まとめ
複数の考察が出来て、自分なりの解釈ができる作品ほど素晴らしいと思うのです。
鑑賞するときは、他人の意見に便乗して自分なりの解釈を作ればいいんです。
自分なりの解釈を含んだ作品は、自分の特別なものになります。
参考文献
(1)熊谷薫 「デュシャンにおけるコピーの問題――レディ・メイドを中心に」真贋のはざま http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2001Hazama/03/3200.html
(2)friday 2009「泉(Fontaine:Marcel Duchamp 1917/1964)
」パンとワインと... http://breadandwineand.blog88.fc2.com/blog-entry-23.html
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